2010年12月1日水曜日

ディアナ・ダービン その25 「エピローグ」

 (MGMの)オーディションを受けた私と母を迎えに、父がスタジオまで来た時のことは良く憶えています。父は顔色が悪く、具合が悪そうでした。それまでに二回倒れたことがあって、医者から当分の間仕事をしない方が良いと言われていたのです。先の見えない状態だったのです。 「パパ、週に100ドルずつ私がもらってくれば、お家は助かるの? 明日またパパに来てもらって私と契約したいってスタジオで言われたの」  そう話した時の父の顔を決して忘れません。うれし涙があふれていました。

 ディアナ・ダービンはけなげな少女です。それは役の上だけのことではありません。病弱な父を抱え、家族の生活が彼女の肩にかかっていたのです。ディアナかジュディかを選ぶ時、メイヤーが「太ったほうを落とせ」と指示したという逸話の真偽は定かではありません。しかしMGMから契約解除を伝えられた彼女のつらさは、われわれの想像を絶するものがあったのです。

 私にとってこの出来事はまさに”終わり”だったのです。犬のティピィとしばらく散歩をしながら思いきり泣いて、死のうとさえ考えました。負け犬のまま学校には戻れません。それから数ヶ月もしないうちに、『天使の花園』の宣伝旅行を終えてニューヨークから戻ると、私の顔が描かれた大きなポスターがハリウッド中に貼られていたのです。疲れていたけれど、幸せで心も浮き立ちました。

 ユニヴァーサルと契約し瞬く間にスターとなったディアナは、仕事にも前向きに取り組みます。

 ショウビジネスは嫌いじゃありません。歌うことも好きでした。撮影現場は楽しかったし、一緒に仕事をしてる人たちも好きだった。最初の日は緊張したけれど、その後はカメラの前でもとてもリラックスできました。共演した皆さんとも楽しく仕事ができたのです。ハーバート・マーシャル、メルヴィン・ダグラス、フランチョット・トーン、ヴィンセント・プライス、ウォルター・ピジョン、ジョセフ・コットン、それにロバート・カミングス---相手役の男性はみんなずっと年上でしたけど。二つの作品で共演したチャールズ・ロートンとは特別なお友達になりました。こういった才能ある男性と共演したおかげで、とても勉強になったし、普通の十代よりは早熟だったと思います。難しかったのは、こうした大人びた様子は隠しておかなくてはいけなかったことです。映画や宣伝でのイメージどおり、子供らしくしていなくてはいけませんでした。

 成長はやがてスタジオへの不満へ、批判へと進んでいきます。その過程で明らかになるのは、彼女の誰にも頼らぬ決断力であり、それを貫き通す意志の強さでした。ヴォーン・ポールとの恋愛も親しい友人にさえ話さず、最後は自分で決めたと謂います。何事につけディアナは自分で判断し、自分で決める人だったのです。スクリーンに立ちのぼる彼女の爽やかさは、おそらくその「きっぱりとした決断力」に裏打ちされたものだったのです。

 映画会社とスターとの軋轢は枚挙にいとまがありません。与えられたイメージへの嫌悪、より多くの報酬、演じがいのある役---これらをめぐって多くのスターが戦い、傷ついて来ました。スターに勝ち目はありません。問題は時間だからです。時の前に容色は衰え、かつての魅力は消えうせていきます。年齢にあわせ適応していけた数少ないスターを除き、多くは戦う自身の足場を失っていきます。その過程で「やめる」ことの選択肢を自ら選び取れたのは、何より彼女に備わった偉大な健康さであり、確固とした決断力があったからです。

 ディアナ・ダービンは特異なスターです。観客はスクリーン上に放たれるその明るさと行動力に魅せられ、歌を愛し、仮想の彼女自身を追い求めていきます。"Little Miss Fix-It”のイメージは個々の映画を飛び越え、ディアナ・ダービンという一つの作品を作り上げます。「いつまでも突然歌い出す"Little Miss Fix-It”ではいられない」と彼女が語った時、まさに引退を決断するしか道は残っていなかったのです。

 彼女の偉大な健康さは、その力によって「ディアナ・ダービン」を作り上げ、そして最後はその力によって「ディアナ・ダービン」に終止符を打ったのです。


後年、ジュディ・ガーランドはパリでばったりディアナ・ダービンに出会います。ディアナはいかにも幸せそうだったといいます。ジュディはこの昔の同僚に自分の悩みを打ち明けます。すると、ディアナは笑いながら言ったそうです。

「そんな仕事、どうしてやめちゃわないの? お馬鹿さんねェ」


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